2010年



ーー−5/4−ーー 裏山登り

 ときどき、裏山に登る。裏山と呼んでいるのは、送電線鉄塔の巡視路である。自宅から中房温泉に至る道路を、車で5分ほど行った所に登り口がある。林の中を30分ほど歩くと、鉄塔がある頂上に着く。標高差は250メートルくらいか。所々急な勾配もあり、体力トレーニングにはちょうど良い(右の画像の赤丸が頂上)

 ここ数年、夏山登山に備えて、春先からトレーニングをしている。昨年までは、ランニングが主体だった。しかし今年は、2月に腰痛を起こし、走ることが出来なくなった。腰が少し良くなった3月末から、裏山に登るようになった。歩く事は腰痛を治す効果もある。体力トレーニングになり、腰にも良いのだから、現在の私にとって裏山登りは、恰好のエキササイズである。

 ランニングと比べて、山道を登るのは、少々身構えるところがある。ほとんど全く危険が無いコースでも、木の根につまずいて転倒する可能性はある。熊や猿などの野生動物もいる。以前鉄塔付近でカモシカに遭遇した事もあった。この山道で人に会ったことは一度も無い。不測の事故が起きて動けなくなったら、たちまちピンチである。そんな理由もあって、これまでは年に数回程度しか登らなかった。

 野生動物対策として、金剛杖を作った。それに、熊よけの鈴を付けた。こういう道具を準備すると、いくらか心強くなる。それで弾みが付き、頻繁に通うようになった。日を空けずに回数を重ねると、地理に慣れてくる。足運びも傾斜に馴染んでくる。山に入る不安は、次第に消えて行った。

 今年は、トレーニングの主体をランニングから裏山登りに切り替えようと思う。登山のための最良のトレーニングは、山に登ることだと言われるが、自宅のそばでそれができるのだから、恵まれている。登山家のラインホルト・メスナーは、毎日自宅の裏山を走って登って訓練をしたという。私も、これから毎日登ることにしようか。自宅を出てから登って戻るまで、およそ1時間である。都会のサラリーマンなら、通勤で使う程度の時間でしかない。これくらいの時間を、毎日健康活動に当てても、悪くは無いだろう。

 体力トレーニングもさることながら、精神的にも良いリフレッシュメントになる。先日は家内とオルフェ(犬)を連れて登り、頂上でお弁当を食べた。全く手近で、金の掛らない娯楽である。しかし、こんな事がなかなか楽しい。繰り返しになるが、恵まれていると思う。

















ーー−5/11−ーー 3D映画を見る


 少し前になるが、「アバター」を見に行った。興行収入の世界記録をあっという間に塗り替えたという、話題の映画である。その評判の本命は、ジェームズ・キャメロン監督が独自に開発した3D映像にあるだろう。

 新聞の映画案内欄で調べたら、いつも行く山形村のシネマ・コンプレックスは、2D上映だと書いてあった。それではつまらないから、松本のシネコンへ出掛けた。

 映画館に着いたら、「当館は2D上映です」との張り紙があった。新聞にそのような注意書きが無かったから来たのだ。騙されたような気がしたが、わざわざメンズデイ(割引き日)を狙って来たのだから、見ることにした。

 映画は素晴らしい出来だった。2Dでも十分な迫力があり、圧倒された。これが3Dならどれほど凄いのか、確認したい衝動にかられた。

 調べてみたら、長野県内では、3D上映をやっている映画館が二つしかなかった。松本市にも、長野市にも無い。これには少し驚いた。数日後、近いほうの、岡谷市にある映画館へ出掛けた。

 3D映像は、新鮮な印象だった。しかし、正直に言って、予想を上回るというほどのものでは無かった。それは恐らく、2Dで見たものが、既に圧倒的な迫力を持っていたからであろう。

 さらに先週、「アリス・イン・ワンダーランド」を見に行った。こちらも売りは3Dである。

 この5月から、例の山形村のシネコンが3D上映を始めた。そのつもりが有るのなら、アバターに間に合わせれば良かったのに、そうもいかない事情があったのか。それとも、一口に3Dと言っても、上映方式が違うのだろうか。

 「アリス」の方が、立体感を強調しているように感じた。本当に飛び出して見えるシーンが多かった。ところが、一部で言われているように、立体化された画像が前後に層をなしているように見え、それぞれの層は平板な見え方をしているようにも感じた。

 アバターは、専用の3Dカメラで撮影しているが、アリスはもともと2Dで撮った画像を、3Dに変換して映しているとの話もある。それで見え方が不自然だという批判もあるようだ。

 映画業界は、映画館への集客を増やすために、映画館でしか見られない効果を作り出そうとしているのだろう。しかし、それが本当に観客の心に訴えかけるものになるかどうか。

 自宅で十年以上前から使っているテレビは、ごく小さな画面だが、ビデオで往年の名作映画を見ると、たとえ白黒の映像であっても、毎回変わらぬ感動を与えてくれる。仕掛けの立派さ、派手さは映画の大きな魅力だろうが、そればかり追い求めても、という気もする。



ーー−5/18−ーー 箱根細工


 子供部屋の片隅から、小さな箱が出てきた。全面に装飾が施された「箱根細工」の箱である。コインを入れる穴が開いているから、貯金箱として作られたものだろう。かなり古びている。いつ購入したものかは、分からない。

 一見したところ、どこにも開く部分が無い。いわゆる秘密箱になっている。最後にこの品物を手にしたのは、ずいぶん前の事だと思うが、手がカラクリの仕組みを憶えていたようだ。数分間の試行の結果、側面の板三枚を四回ほど動かして開くことができた。

 中に何か入っているのか、入っていればどんな物か、多少の興味があった。しかし出てきたのは、子供たちが入れて、恐らく当人も忘れているような、どうでもよい事が書かれた紙片とか、ままごとの紙幣などだった。

 箱を覆っている装飾は、寄木細工である。色合いの異なる木材を寄せ合わせて接着し、断面が幾何学模様になるように作る。それを巾の広い鉋で薄く削り、模様紙のようになったものを箱の表面に貼り付ける。いったん寄木のブロックを作れば、薄く削って何枚も取れるから、効率が良い方法ではある。しかし、整然とした幾何学模様を作り出すには、寄木をやる時点で緻密かつ正確な加工が求められる。もちろん伝統的に培われたノウハウがあるのだろうが、高度な木工技術であることは間違いない。

 この品物の性格を考えてみた。何故カラクリ箱なのか、何故寄木細工なのか。

 貯金箱だから、容易に中身が取り出せないようにカラクリ箱になっている。そんな解釈が一般的なところだろう。しかし実際には、カラクリに期待されるものは、それほど大きくは無い。箱はそのまま持って行けるような大きさである。中身が欲しければ、叩いて割るのは簡単だ。金庫の扉に付いているダイヤルのような重い役割は、もとより与えられていないのである。

 もっとも、貯金箱は金庫とは違う。お金を盗まれないように保管するという目的ではない。日々貰うお駄賃などを入れ、少しずつ貯めていくための箱だ。貯めることが楽しみだから、簡単に開けられないような仕組みになっている。開閉が面倒になっているのは、他人のアクセスを防ぐためではなく、自分がたやすく中身を取り出さないようにするためだ。あるいは、中身の大切さを意識するための仕掛けだとも言える。

 貯金箱というもの自体、現代では実用性に乏しいと思う。子供にお駄賃を渡すという習慣がまだあるだろうか。小銭を貯めることを楽しみにし、大した金額でもない買い物に胸を膨らませる子供がいるだろうか。ましてや大人が、日々生じるちょっとした余禄を、迂闊に使ってしまわないように、丁寧に貯めておくなどということがあるだろうか。

 さて、話を箱根細工の小箱に戻そう。

 実用性は希薄であっても、大切な物を入れる箱だから、それなりの体裁が求められる。そのために装飾を加える。高級感を演出するには、中途半端な絵を描くよりは、緻密な繰り返し模様を展開した方が効果がある。寄木細工なら、幾何学模様に適している。ネタを作るのは大変だが、薄く剥がしてたくさん取れるのだから、能率は良い。寄木細工を施している理由は、高級感を演出する模様を、同じパターンで大量に実現することにある。

 木で作られているだけの箱など、売れはしない。私が子供の頃は、カステラは木の箱に入って売られていた。今でも、高級な佃煮やそうめんなどは、桐の箱に入っている。木製の箱は、包装容器として扱われてきた。それこそ、タダの箱である。現代の木工家が、どんなに思いを込めて作っても、単なる箱では商品として難しい。木には、素材そのものの魅力が有ると、私などは思う。しかし、価格とのバランスで見ると、一般消費者にとって、その魅力はさほどインパクトがあるものでは無い。つまるところ、木の箱は、付加価値を付けなければ売れないのである。

 カラクリも寄木細工も、付加価値を与える手段と言える。それに引かれて、お客は財布の口を開ける。

 ところでこの貯金箱は、見方によっては、立場が逆転して、付加価値が本命の商品価値になっていると言えるかも知れない。道具の価値は、発生原因まで遡れば、実用性にあるだろう。それを本来の価値と考えるから、付加価値という概念が有る。一方、実用性が乏しくても、付加された価値が買い手の購買意欲を誘うなら、商品として成立する。装飾に傾けば、アートの領域になる。装飾以外の面でも価値を創出することができれば、独自のジャンルとなる。この品物には、そういった性格もあるだろう。

 少々せちがらい話になったが、もう一度この箱根細工の箱を見ると、ある種の感銘を受ける。起源は江戸時代の後期と言われている。長い年月の間には、様々な事があったろう。それを乗り越えて作り続けられ、現在でも商品として出回っている。この特殊な分野に生活をかけてきた人々が作り出した品物には、歴史を感じさせるような、何とも言えない存在感が有る。



ーー−5/25−ーー 薬効植物


 大町市郊外に住んでいる木工家M氏から電話があり、行者ニンニクで一杯やらないかと誘いがあった。

 午後、電車に乗って出掛けて行った。奥さんは東京に用事があり、お子さんを連れて、ここ数日千葉の実家に戻っているという。その留守の間に羽を伸ばそうという魂胆だったようだ。

 庭に生えている行者ニンニクを根元で刈り、片手で掴みきれないほどの量を採った。それを氏が台所へ持ち込んで、調理をしていたとき、一人の男が現れた。突然の来客は、このお宅では普通の事である。

 男は、山で採ってきたという、イカリソウとツルニンジンをM氏に渡した。住まいは長野市ということだが、そのためにわざわざやって来たのだろうか。二人の関係を聞いたら、山野草仲間だと言った。

 二人はその植物を前にして、嬉々として喋っている。何事かと思って植物の素生を聞くと、どちらも強壮・強精効果のある代物だと言った。

 M氏は、60歳近くになって、20代半ばの女性と結婚し、現在保育園へ通うお子さんが二人いる。子供をもうけることができたのは、イカリソウのおかげだと、氏は笑いながら言い放った。

 その後、酒を飲みながら、ひとしきり薬用植物について雑談をした。

 一口に植物と言っても、様々な種類があり、食べられるものもあれば、食べられないものもある。毒を持っているものもあれば、薬効を示すものもある。

 動物で毒を持つものは、外敵から身を守るためだろうが、植物の場合は、そう簡単な理屈では無いだろう。ましてや、薬用効果や強壮・強精効果といったもの、さらには覚醒や幻覚を呼ぶ効果などは、いったいどういう理由で与えられているのか。

 行者ニンニクをつまみに酒を飲み、植物の不思議さを語って、しばし熱が入った。

 ところで、話が朝鮮人参に及んだとき、焼酎に漬けた朝鮮人参は、何十年経っても食べられるという話が出た。私はそれを知らなかった。十年以上前の事だが、父が知り合いから朝鮮人参を貰い、それをアルコール漬けにしたことがあった。それを恐らく一度も使わないうちに、父は亡くなった。一昨年だったか、納戸の中でその瓶詰めを発見した。変色して澱んだ液体は、とうてい口にできない代物のように見えた。それで、庭の地面にぶちまけて捨てた。人体を連想させる形の、なまっ白い人参が、泥の上に転がったシーンを思い出す。その話をしたら、二人はあきれ顔になり、「それは一万円札の束を焚き火にくべるような事だ」と言って私を責めた。






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